集団ストーカー・ハンター

集団ストーカー被害者向けに私の奮闘記をここに綴ります。

一部の善良な教団員たち(その2)

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創価学会員には、お馴染み、集団ストーカー工作に加担している者どもがいる一方、集団ストーカー工作員に嫌がらせする、私の反撃を手助けしてくれるなど、真逆の行動をとる者たちも一部にいます。この者たちを、私は、「善良な教団員」と呼称し、集団ストーカー工作員とは区別しているところです。

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https://syusutoresistance.hatenablog.com/entry/2018/07/22/103152

このブログは、集団ストーカー工作員である創価学会員を狩る、というスタンスのもとに記事を書いていますから、こうした善良な創価学会員を取りあげて記事にすることはあまりありませんでした。ところが、こうした学会員を取り上げた記事にも持続的に高アクセスされるなど一定の反響があります。

たしかに、日々、集団ストーカー工作員どもに散々嫌がらせされている被害者の方にとっては、こうした、言わば味方になってくれる者がいるというのは心が救われるかもしれません。実際、私もこの事実を知ったときは、幾分心の負担が軽くなったのを覚えています。今では頼もしい限りです。ということで、たまにはそうした記事も書こうと思います。

ところで、善良な創価学会員による工作は、集団ストーカー工作と同様、偶然を装ってなされます。その行為は、側から見れば偶然の一コマに映ります。ですが、偶然起こったものと決定的に違うのは、その起こる確率です。天文学的確率で起こり続けるというのであれば、それはもはや必然的なものと評価するほかないでしょう(確率論については以前に記事の中で触れてますので、ここでの説明は省かせてもらいます)。

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https://syusutoresistance.hatenablog.com/entry/2018/11/02/233924

中には、咳払いなどでそれとなく知らせてくる者もいます。咳払いは、私の場合、絶妙なタイミングで複数の者がやることによって、監視を暗に感じさせることのほかに、嫌がらせ工作について、偶然に起こっているものではないということを伝えるべく、それが起こった絶妙なタイミングで、別の工作員が咳払いをしてくる、といったものがあります。それの善良な工作バージョンです。

具体的なエピソードを挙げます。それは2年ほど前の話になりますが、出張先のオフィスビルで仕事を済ませ、これから帰ろうとしていたときの出来事です。私は下階に降りるため、エレベーター乗り場に向かいました。乗り場に差し掛かるところで、ちょうどその階に来ていたエレベーターが、今まさに下に行こうとドアが閉まろうとしていました。

「(あぁ、次のターンを待つか。)」

と諦めていたところ、中にいたサラリーマンが、エレベーターからそれほど近くない距離にいた私に気付き、扉の開閉ボタンで再度、扉を開け、私を待ってくれました。私は駆け込んでエレベーター内に入ります。そのときでした。このサラリーマンは、私がエレベーターに乗り込むと、タイミングよく「コホン、コホン」と、私へのアンカリング済みの聞き覚えのあるリズムの咳払いをしたのです。

いつもなら、嫌がらせ工作があった場合、周りにいた工作員が、それを意図的なものと暗に知らしめるために咳払いを行ってるパターンが多いのですが、今回のケースでは、私はこの咳払いをした者から嫌がらせは受けておりません。監視アピールの可能性は残されているものの、私にとっては、むしろこの者によって、次のエレベーターを待つ手間が省かれるという、ささやかながらの便益のほかに、得ている又は失っているものはありません。

これが嫌がらせではないということであれば、その咳払いは別の目的、すなわち、それが偶然ではなく意図的に行われた善良な工作なのであるというメッセージと考えることができるでしょう。最初こそ半信半疑ではありましたが、何度かされるうちにすぐにピンとくるようになりました。まさにアンカリングですw

「たかが咳払いで大袈裟な。」

一般人は当然ながら、被害初期の方の感覚はそうでしょう。ですが、創価学会員が意図して行う咳払いは統一されています。千差万別であるはずの咳払いが、特定のリズム、抑揚で行われるのです。これは、連中の間で咳払いが何らかの目的を持って規格化されているということにほかなりません。このケースではメッセージ目的ですが、それを伺わせるものとして、創価学会の会館で創価学会員が咳払いの練習をしている、というツイッターを確認しています。

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さて、話を戻しまして、そんな善良な創価学会員を私は色んな場面でみかけています。意識していなければ気付かないものが多いですが、意識すると、ちょくちょく目にします。今回は、そんな色んな場面に現れる彼らのうち、買い物の場で見かけた善良な創価学会員たちを紹介することとします。

それは友人と服を買いにアウトレットモールに行ったときのことでした。私は、ショッピングモール内の店を回りながら何を買うか品定めしていました。そんな中、ふとあるショップの入口にディスプレイしてあるマネキンが履いてるズボンが目に止まり、その店に入りました。

そのマネキンは、ショーウィンドウに入っているようなものでなく、ズボンがたくさん山積みされているテーブルの上に置いてありました。そこには、マネキンが履いているズボンのほかにも、いくつかの種類のズボンが陳列されていました。

私はテーブルをぐるりと回って目的とするズボンを探します。でも、見つけることはできません。どこだろう、どこだろう、と探し回っていたそのときです。テーブルの向かいにいた青年が、手でトントンと、あるズボンを叩いたのです。それに私が気付いたことを確認後、この青年はそのズボンに目をくれることなく、店を出て行きました。

当時の私はこうしたパターンの善良工作にまだ疎かったのですが、それでもそのときは何やら意味ありげな仕草だなぁ、と思いました。恐る恐るその青年が叩いていたズボンを確認しに行くと、それこそまさしく私の探していたズボンでした。そこでピンときました。あの青年が、「これだよ。」と教えてくれたのだ、と。

もしこの青年がズボンを叩いたのちにこのズボンを手に取るなど普通の買い物客としての振る舞いをしていたなら、私は確認しに行くことはなかったでしょう。しかしこのときは、ズボンに触るのではなく、2、3本の指でトントンと叩き、なおかつ、その後ズボンに目をくれることなく出て行くという、衣類を確認する場面にしては不自然な挙動をしたわけです。気になる、というほどではありませんが、何かひっかかりました。

もちろん、この光景は、側からみたら大して意味のない、深く考える必要のない人間の気まぐれな仕草のひとつに映ることでしょう。しかし、そうであったとしても、その仕草によって私は、自身が探しても見つからなかったズボンを見つけることができた、という事実に変わりありません。もし、これが気まぐれではなく、意図的なものであるのとしたら、それは、私の探していたズボンをジェスチャーで伝えるものと捉えるのが自然でしょう。

実は似たようなエピソードはほかにもあります。たとえば、私がスーパーで買い物していたときのことですが、そのとき私は、食材を買う中、ポン酢だけ見つけられず、調味料棚の周辺をウロウロしてました。キョロキョロ探していたところ、向かいからやってきた主婦が、おもむろに左を向きながらコホン、コホンと咳払いしました。

この挙動には、わずかながら違和感を感じました。というのも、この御時世、咳エチケットがうるさく言われますが、その主婦はマスクをしており、距離も2、3メートルほどと大分空いていました。狭い通路の中、向かいにいたのは私だけです。下を向いてするのならともかく、距離的にもわざわざ横を向いて咳払いしていることに不自然さを覚えました。感覚的なものですが、向き方もなんか変でした。向いた方向に何かあるのかと思わざるをえません。

なお、その咳払いは、お馴染みの聞き覚えのあるリズムの咳払いです。それも相まって、もしかして?と思ってその主婦が向いた先に陳列されていた調味料を確認すると、それは醤油やソースなどなんかではなく、確かにポン酢でした。ということはこの主婦は、ポン酢がどこにあるかわからなかった私に、偶然を装ってそれを教えてくれたものと捉えることができるでしょう。

これらのエピソードのように、買い物の場面においてよくある善良な工作としては、こちらが探しているもののありかを教えてくれる、というものです。それを伝える方法としては、わかりやすい咳払いの例を挙げましたが、実はそれ以外の方法で教えてくれることもあります。ただ、それは偶然の挙動と見分けがつけ難いため、意識していないと見落とす可能性が高いものです。

たとえばこんなことがありました。ある日の休日に私は、買ったばかりのベッドサイドテーブルの上に傷がつかないよう、何か敷くものを探しに繁華街に繰り出しました。敷くものとは言っても、ブルーシートみたいなホームセンターにあるようなものではなく、小洒落たものを探していました。また、ハサミでちょうどいい大きさに加工するのでなく、サイズの近いもので探していました。

そんなものを売ってる店として私は雑貨屋くらいしか思いつきませんでしたが、おしゃれな雑貨屋は知りませんでしたし、それを渡り歩いて探す気力はありませんでしたので、代用できるものとして、ランチョンマットのようなものが使えると思い、お洒落な食器を売っている店に向かいました。そこなら、お洒落なランチョンマットも置いてあるだろう、と。

食器屋に着き、ランチョンマットを探します。ランチョンマットコーナーには、複数の棚に、色々な大きさ、色々な模様のものが沢山並べられておりました。この中からお目当てのものを探さねばなりません。パッとみた感じでは、いかにもランチョンマットです!というような模様のものばかりで、ほぼ正方形の木製のベッドサイドテーブルに合うようなものはなかなかありませんでした。

「(やっぱり無いか・・・。)」

そう思い、せっかく食器屋に来たので、他のコーナーに行き、別の食器などを見てまわりました。ひと通り見て回った後、再びランチョンマットコーナーに戻ります。すると、OL風の女性が、あるランチョンマットを触っており、私がその場面を見かけてからタイミングよく、その場を去ったのです。

「(あの挙動はもしかして?)」

もはや私の勘は冴えていました。私はその女性が触っていたランチョンマットを確認しに行きます。見てみるとそれは、形は円形のものですが、直径は私のベッドサイドテーブルとほぼ同じで、柄もなく、木に合う黒色の単色でレースのような模様のゴム糸で編み込まれたお洒落なもので、まさしく私が欲する条件にピッタリのものでした。

この例は先ほどの咳払いのパターンより気付きにくいものです。でも、どこか不自然だったり、タイミングよく動いていたりしているので、注意してみると、案外、気付けたりします。あとは勘ですかね?集団ストーカー工作員の嫌がらせにピンときちゃうようなあの勘と同じです(笑)その勘が、それが偶然を装った工作を見抜いてくれます。

日常の生活の中で時折現れる善良な教団員は、おそらく、陰ながら日々、我々に善良工作をしてくれているのかもしれません。嫌がらせが減ったりしているのも、彼らが事前に嫌がらせを邪魔してくれてたりします。今回は、買い物の場面における彼らを紹介しましたが、他の場面でも見かけてますので、それはそれでまた記事にしようと思います。