集団ストーカー・ハンター

集団ストーカー被害者向けに私の奮闘記をここに綴ります。

命懸けのストリートシアター

ストリートシアターの本質は、非日常な出来事を、ありえない頻度で被害者に見せることで、自分がただならぬ環境下にあるという不安を煽り、精神的負担を与えるものだと思います。とは言っても、効果のほどは個人差もあると思いますが。

私がこれまでに見せつけられたストリートシアターとしては、警察による取り締まり・事故などの現場を見せつけるものや路上や店舗内で喧嘩が始まるものなど些細なものから、勤め先の者が逮捕されニュースになる、鉄道事故を引き起こすなど大規模なものまであります。

鉄道事故のストリートシアターについては、以前の記事【またもや鉄道事故発生(2018年4月30日)】で、それを実行するために工作員が命を懸けている可能性について触れましたが、ある出来事を機に、それは確信に変わりました。いえ、むしろ、意図的に引き起こしているものだという、加害者側のメッセージと捉えています。

その出来事は、ある休日に起きました。その日、離れたところに住む友人と、関東圏でいうところの都心部で会い、昼食を共にし、近くの茶店でだらだら喋っていました。

その茶店では色々喋ってましたが、その中でもスーパー銭湯の話題が大部分を占め、最後まで盛り上がりました。特に、その友人の住むところの最寄駅から一駅のところに新しくスーパー銭湯ができるということをその場のネット検索で知り、友人は興味津々でした。最寄駅からそこまで歩いていける距離か、そこは前何があったかなど、話していました。

ある程度の時間をそこで過ごし、友人と別れました。帰宅後、夕食等を済まし、スマホからネットを見ていると、1つの記事が目に飛び込みました。なんと今日話題にしてた先の一駅の区間で人身事故があったというものでした。事故の内容は、その一駅の区間における線路脇の草むらから人がフェンスをよじ登り線路内に侵入し、そこにやってきた電車に撥ねられたというものです。電車は急ブレーキをかけましたが、間に合わず、この者は死亡しました。この事故は、私が友人と先の茶店で別れた約4時間後の出来事でした。

皆さんはこれを偶然と捉えますか?私にはもはや偶然とは思えません。工作員は、いとも簡単に命を捧げることができるよう洗脳されているのでしょうか?だとすれば、この教団は、会員の命など何とも思わない危険な団体というほかありません。ちなみに、教団の大学の最寄駅は自殺者が多いようです。

集スト学会員に言っておきたい。

教団に命を『捧げる』ということは、見方を変えれば、教団に命を『奪われている』ということ。考えることをやめる、すなわち、洗脳されている状態だと、このように物事を多面的に捉えることができなくなる。おかしいと『感じる』ことを、おかしいと『考える』ことができなくなる。教団に、「これは先生を守るため」だとか「無間地獄に行かないようにするため」だとか上手いこと言われて実行したんだと思うが、このように自分で考えることを放棄すると、どんどん教団に搾取されていく。お金も、時間も、そして命までも。死後の世界はあるかもしれない。しかし、無いかもしれない。いずれにせよ、確かなことは、命を捧げると、現世での人生は終わってしまうということ。私への嫌がらせにそこまでの価値がないということは、普通に考えればわかること。教団が何と言っているのかは知らないが、騙されてはいけない。自分が「おかしいのでは?」と思うことは、簡単に捨ててはならない。

私は無宗教だ。無宗教の者に何がわかるか、と思うかもしれない。ごもっともだ。しかし、無宗教だからこそ純粋に見えるものもある。信心というものは、自分の感じるところや考えるところと符合することでより強固なものになると思われる。ここがぐらついていると、迷いが生じ、悩み苦しむこととなる。これは何も宗教に限らないと思う。教団の場合はどうか?ネットにある脱会者や現役会員の書き込みを見る限りでは、自分の人生が教団の言う通りにはなっておらず、むしろ逆に不幸になっているという声があまりにも多い印象だ。無宗教の私に言わせれば、ずっと迷い悩み苦しみ続けるくらいなら、別の心の拠り所(元の宗派とか)を見つけるのが最善の方法と思う。しかし、実際にはそううまくいかないらしい。であるならば、教団とは距離を置くのが良い。教団との距離が近ければ近いほど搾取されていく。信仰熱心な会員ほど不幸な人生を歩んでいるということは聞いたことがあるだろう。

これらは単なる私の個人的な意見だ。そう思わなければ別に無視してもらって構わない。一笑に付してくれても結構。私はお宅らのボスと違い、洗脳するつもりはないのだから。ただ、宗教抜きに同じ人間として、もはや黙ってはいられない。